人生に活かせるスピリチュアル~デヴィッド・ホーキンズ博士の教えから

スピリチュアルの技術を駆使して人生を改善してきた著者が、その理論と技術を公開。

self(エゴとマインドの複合体) その22 2021/1/22

エゴは細目向けであり目に見える部分のフィールドのうちの線型的コンテントである。(根本ではない、ということ)目に見える効果それじたいは排他的かつ制限のあるものであるー主に対象物の手前にフォーカスするために、そしてそうすることで操作しやすくなるように。スピリットはコンテキスト・全体に根差しており、そのため、対象物の裏側にフォーカスし、包括する。そのフィールドは局地的ではなく拡散的である。

 


 

 通常の人生においては、エゴ/マインドは「未完成」から「完成」へと移動する。それはつまり「完璧じゃない」から「完璧」へと移動するということである。対照的に、スピリチュアルな道というものは、それを進化の状態の顕現として完璧から完璧へと移動している、進化の方向性とやり方としてみる。エゴの立ち位置は相互作用的であり、通常は複合的な立ち位置を表している。たとえば、怒りを分解するためには、怒りの根底にある傲慢さを意欲的に明け渡すことが要求され、そしてそれはまた欲望を明け渡せるかどうかにかかっている。これは欲望によって力を与えられた恐怖を明け渡すことを意味し、それはまた、想像上の損失であるとか、それ以外のネガティブな感情を明け渡すことをも意味する。

それゆえ、その動機というのは絡み合い互いに影響を及ぼしているのであり、二元性を構成するものを効果的に明け渡すことによって次のレベルへと導かれるのである。そしてそれぞれのレベルは神に対する自分の信念、プログラムされた霊的な期待、そして信念体系と直面する傾向がある。したがって、スピリチュアルなワークは因果律に代表されるような精神的な概念を超越するための探求対象なのである。

 


 

 エゴの生存は真実をつぶすことに依存している。なぜならエゴがそもそも虚偽性へ忠誠を誓うことに依存しているからだ。一つ例を挙げて言うなら、スピリチュアルな真実はエゴの「自分が主権だ!!」という思い込みに挑戦している。

エゴは「正しくある」(例:政治)ことに執着している。エゴの主な目的というのは「正しくある」ことだ。そのため、正しさがもたらす報酬の核心というのは、このことなのだ。あなたは別に正しくあろうとしなくても、正しい。もちろんその逆またしかりである。

 

 

 (書籍版「Dissolving the Ego, Realizing the Self」David R. Hawkins, M.D., Ph.D. 22~24頁)

 

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self(エゴとマインドの複合体) その21 2021/1/21

増長したエゴは理論、合理性による改善だけでなく、真実性による検証が欠けている。

 


 

 エゴの性癖に対する依存は快楽というものがネガティブ性から得られる感情的報酬に由来するという中毒性にも似ている。それゆえ、ネガティブな立ち位置は、己を永らえようとする傾向がある。それは基本的な動物的本能を満足させる、推定と内なる誘惑的疑似餌に根ざした、依存に似た習慣である。繰り返すにつれ、それらはついには、自己中心的なエゴが当初に目指した目的である、支配とコントロールを獲得する。

 


 

 意識レベル200未満(誠実性の区別となる重要なレベル)はエゴの動物的本能がもたらす誘惑的感情的快楽ゆえに自己伝播をしたがる傾向がある。 

 

 

 (書籍版「Dissolving the Ego, Realizing the Self」David R. Hawkins, M.D., Ph.D. 21~22頁)

 

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self(エゴとマインドの複合体) その20 2021/1/20

エゴにとっては、「ほしいもの」とは「必要なもの」と解釈でき、そのため、「所有していなければならない」と解釈されてしまう。それゆえ、それを追い求めるために必死になり、思い切った、無謀なことをすることすらある。そのため、欲望は絶望へとエスカレートし、数百万といった他人の死をもすら含んだ如何なる犠牲をも要求するようになる。エゴにとって欲しいものは何が何でも手に入れなければならず、そのことを正当化するためにたくさんの言い訳をするようになる。エゴはどのような手段を使ってでも自分が勝たなければならないから、エゴは他者を悪者にし、責め立てることで箔をつけたずる賢いレトリックを使って正当な理由を取り除く。なぜなら進化の数百万年を通じて、もしエゴがその欲しいものと必要なものが満たされていなかったら死んでいただろうからである。エゴはその強化のために数百万年もの歴史を持ち、長い長い間の記憶を有しているのである。

 


 

エゴの構造は二元的であり、霊的真実の統一性を対照的な対になるものや反対同士に見えるもの、そこから作り出されたものや知覚の産物、そのように投影が主張するものにと引き裂く性質を持つ。

 


 

エゴの立ち位置は自分自身を伝播する。なぜならそれは、それがひそかにもたらすものが感情それ自体だと思っているからである。

 

 

 (書籍版「Dissolving the Ego, Realizing the Self」David R. Hawkins, M.D., Ph.D. 20~21頁)

 

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self(エゴとマインドの複合体) その19 2021/1/19

ずる賢いエゴは、自分の尊大さを、己こそが神であると宣言し本当の神性に取って代わろうとすることで(ネロやシーザーやその他尊大な指導者が当てはまる)、あるいは、本当の神性とはまた別の、特別に規定され、権限を与えられた神性があるのだと宣言することで、表現しようとする。

 


 

 エゴの立ち位置は責任を取ろうとしないという性質を有し、その責任を「外側」に押し付けようとする。しまいには、エゴがもたらすものはエゴが持続するためのエネルギーとなってしまう。なぜなら、エゴはスピリチュアルなエネルギーを受け入れるという楽しみに欠けるからである。エゴがもたらすものというのは神性の代用品なのだ。それゆえ、エゴは己の主権をその秘密の、静かな思い込みー自分こそが命そのものであり、自分こそが神であるというー思い込みを確信し続けることで維持している。

 


 

 エゴは自ら救いなんて求めようとは決してしないー救いのメカニズムは、神の介入を招き入れたいという意志を通じて行われるものである。

 

 

 

 (書籍版「Dissolving the Ego, Realizing the Self」David R. Hawkins, M.D., Ph.D. 19~20頁)

 

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self(エゴとマインドの複合体) その18 2021/1/18

人類の中にある原始的なエゴの粘り強さは、いわば「自己中心性」のナルシスティックな核心といってもいいだろう。それは意識レベル200未満、つまり誠実性への重要なレベルを超えることができておらず、自分にしか興味がない、他人の権利に関心がない、そして他者を敵とみなし、味方としてではなく競争相手とみなすという原始性(野蛮さ)を表している。これは合理化されたエゴにとっては致命的以外の何物でもない。

 


 

 エゴ/selfは、自分の存在が日常的に生存の役に立っていると思っているが、生存の本当の源はSelfとしての神性の存在である。エゴが自分を維持していられるのはSelfのおかげである。それは生命エネルギーの受信者でしかないのであってその起源ではない。エゴは自分が生命エネルギーの起源だと信じているようだけれども。 

 


 

 エゴはその(自分の考えの中だけで繰り広げている)その人の映画の主人公である。

 

 

 (書籍版「Dissolving the Ego, Realizing the Self」David R. Hawkins, M.D., Ph.D. 19頁)

 

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self(エゴとマインドの複合体) その17 2021/1/17

 

エゴは自分の限界を傲慢的な否定をもって防御するため、己の犠牲者となってしまう。

 


 

意識調査のテクニックを利用するという発展的分析から、人間のエゴというのはそれ自体が主に生き延びるという動物的進化の根源の製造物でありかつ継続したものであるということが明らかとなる。

 


 

エゴが本質的に傲慢であるのとは対照的に、本物の知性というものは意識/気づきの本質であり非線形的であるため攻撃の対象とならない。しかしながら、マインドと称したエゴによって利用されてしまうと、生存のためのエゴの操作の対象となってしまい、またエゴの衝動を手助けしてしまう。それゆえ、エゴはマインドを己のずる賢い構造を隠すためのカモフラージュとして利用する。その認識こそが、なぜエゴは信仰のふりをして偽装するのか、スピリチュアルな真実をひそかに害し続けることが人類の長い歴史の中で人類の文化の中心に居座り続け、夥しい人命を奪い続けたかを明らかにするのである。

 

 

 (書籍版「Dissolving the Ego, Realizing the Self」David R. Hawkins, M.D., Ph.D. 18頁)

 

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self(エゴとマインドの複合体) その16 2021/1/16

エゴはその根本において極度に自己中心的であり完全に倫理的原理を欠いている。

 

(筆者註:エゴがもともと肉食動物由来の「獲物を獲得し生存する」本能に基づいたものであることを考慮すれば頷けるかと)

 


 

エゴは自分自身の犠牲者である。厳密な内省によって、エゴというのは、本当にただ単に自分の楽しみと生存ゲームのために「騒ぎまわっている」だけの話なのだ。本当の「あなた」は実際には敗者である。

 


 

エゴは感情に執着する。感情こそが立ち位置と親密に結びついているからである。エゴはほかに選択肢がないかのように考えがちである。「神に明け渡す」ということは、永遠かつ聖なる平和の喜びを見つけるために、慰めとスリルの手段としてのエゴの方向を見つめるのをやめることである。内側を見るということは、内側に横たわる永遠に有効な光明の源を見つけることを意味する。

 

 

 (書籍版「Dissolving the Ego, Realizing the Self」David R. Hawkins, M.D., Ph.D. 17頁)

 

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