デヴィッド・ホーキンズ博士の教え紹介(一部)のブログ

スピリチュアルの技術を駆使して人生を改善してきた著者が、その理論と技術を公開。

主観性(Subjectivity) その3 2021/3/20

理解(realization)※は「私」がコンテントやデータではなく、いくつかのステップがコンテントないしはプログラム(信念体系)から取り除かれた非個人的な領域であることに気が付いた結果として発生する。そのとき人は自分が参加者あるいは主役ではなく聴衆なのだということに気が付く。

 


 

「(何か)について知る」ということは情報そのものが親しみのあるものだとしてもその現実と真実は経験的に確信を得られるという点はそのままである。その確実性に到達する最終ステージにおいては、本当に知るということはそのものに「なる」ということであり、それゆえ、両者の主体と知る者は一体化するのである。「~について」知るというのはマインド主体の精神的活動である。経験的に知るということは確証として受け入れられたということである。

 


 

意識の気づきの領域は時系列(time-tracked)ではない。それは静謐であり、自律であり、努力を要せず、平和であり、すべてを包含し、そして洗脳されていない。※2 それは自由であり、束縛から解放されており、自発的であり、静かであり、生や死の主題ではない。この領域の発見はシンプルであり簡単である。そしてくつろいでいる。実現とは「試す」のではなく「参加する」ことの結果である。それは獲得の対象ではなくサレンダーの対象である。コントロールしたいという欲望とエゴの執着が手放されたとき、意識の気づきの領域は自らその姿をあらわにする。

 


 

 問:マインドの向こう側とは何ですか?

答:コンテント、いわば思考や感覚やイメージを取り除いた主観的な気づきのことである。それは静寂・静止・不動であり、あまねく臨在し、すべてを包含する。

 


 

 好奇心は、思考のコンテントと形から、意識/気づきそれ自体の静かな生まれたての領域に気づくために、変化することがある。静謐こそがSelfであり、思考は小さな自己である。

 


 

 エゴ/マインドは斬新なものに惹きつけられ、それゆえ、面白い形と知覚を必死に探し求める。これは拒否されるべきだし、興味なるものは常に臨在しているが単に気づかれないというだけの静かで形なき基盤に置き換えられるべきである。それは音が識別され得ない静かなバックグラウンドと比較されうる。

 

 

 

 

 ※realizationを本当に正確に訳しているホーキンズ博士関連の書籍・ブログには筆者はまだ出会ったことがありません。Reality、realといった単語との関連を考えた時、上段の訳し方がおそらく意味的には理解しやすいのだろうなということで現在暫定的にこのように訳しています。

※原文上の単語は「unprogrammed」です。直訳すれば「プログラムされていない」ということになります。本ブログでも、programを「プログラム」と訳していたケースが多かったですが、人間は本当にマスメディア等に影響を受けやすいことを考慮して、意訳ではありますが「洗脳」と訳すことにしました。

 

 

 

 

 (書籍版「Dissolving the Ego, Realizing the Self」David R. Hawkins, M.D., Ph.D. 83~84頁)

 

原典はこちら