デヴィッド・ホーキンズ博士の教え紹介(一部)のブログ

スピリチュアルの技術を駆使して人生を改善してきた著者が、その理論と技術を公開。

「教え魔」をスピリチュアルに考察する!?

筆者は最近知ったのですが、「教え魔」なる言葉が存在するそうですね。

ゴルフ、ボウリング、テニスなどなど、その道を究めている方が、頼まれもしないのにその道のビギナーにあれこれと教えようとする人のこと、ということでした。

スポーツに限らず、いますね…(笑)ネットの世界でもそうですし。

頼んでもいないのに、わかったようにしてSNSにわざわざコメントをしていくのも、一種の教え魔と言ってもいいかもしれません。

 

教え魔となる心理として「親切心」を挙げた人の記事を読みましたが、ほかにもいえる教え魔の奥底の心理は、「(すごい人として)認められたい」「自分の能力をひけらかしたい」「この機会に自分を心の底から慕ってくれる人がほしい」あるいは「価値観を分かち合いたい」(=仲間が欲しい)というものです。

これがさらにこじれると、自分は誰よりもこの分野で実力があるだの自分は神だ的な言動にすら発展することもあります。

これらいずれも、意識レベル200未満に属するものとなります。

 

 

なぜこのブログでわざわざ教え魔のことを取り上げたかといいますと、この手のエゴは「霊的エゴ」(Spiritual Ego)の一種でして、「自分は知っているんだ! どうだすごいだろう!」という気持ちと、それに呼応するように「それをお前らも認めろ! ほら、認めろ! (てか…承認を通じて…俺に愛をくれぇぇぇぇl!!!)」という気持ちが奥底にあるから、頼まれもしないのに他者に対してアクションをとるという行動に出ることになります。

愛を求めて泣き叫ぶレベルであればまだ救いようもあるのですが、霊的エゴの増大が度を過ぎるとどうなるかといいますと、いわゆる低次元アストラルのレベルとなります。

これは、ホーキンズ博士の「わたし 真実と主観性」にも詳しく書いてありますので、お持ちの方は今一度読んでみてください。特に、「堕ちたグル」関係の文脈は非常に役に立ちます。あれは何も特別な人物だけがその状態に陥るのではなく、誰でもああなる可能性はあるのだということです。

 

あとは、本当に親切心からのもので、「この人に教えてあげることで、自分も徳積みになる」と本気で信じ込んでいるというケースもあります。

「他人に親切にしてあげなさい、自分ができることを他人にしてあげなさい」という教育を子供のころから受けてきた方に多く見られるかもしれません。

これは、親切の内容を取り違えているだけなのですが。人はその意識レベルの中で常に最大の努力を行い(信じられないと思われそうですが、怠けているように見えるのも結果が出せないこともまた、最大の努力なのです)、そこで得られたものをアカシックレコードに送り込んであの世へ戻っていくわけです。これが「人間として生まれてきたスピリチュアルな目的」でもあります。地球上の人物が全員同一の意識レベル、同一の知識技量だったら何の勉強にもなりませんので。だから、いち人間ごときが、他者の学びにむやみやたらに首を突っ込まない、のが本当の親切といえます。

筆者はかつてこの意味を全く分からず(これもまたおせっかいな両親、特に父親の「教え魔」気質に無意識に影響を受けた結果なのですが)、まさに「教え魔」状態だったのですが、博士の原書を学んで「これはまずい」と気づき、教えることをやめました。

 

どちらのパターンにしても、こういう教え魔には、博士の講義「101 Ways to Happiness」の98番をお見舞いしてさしあげましょう(笑)

#98 Improve oneself instead of others

他人ではなく自分を改善せよ。つまり、「他人のことより自分のこと」ということです。

何でもかんでも「先回りして教える」ことが親切ではないということです。

スポーツにしても、下手な人が隣でプレイしていて「見ていられない」からとはいえ、それが即自分の妨げになりますか?ってことです。

まあ、自分のチームの中にそういう人がいれば自分も足を引っ張られるから…というのは理解できますが。

 

承認を通じて他者から「愛」を引き出そうとする輩に会うと、筆者は、ものすごく疲れます(笑)

これは筆者の個人的な考察ではありますが、この手の人ほど、寂しさを抱えているように見受けられます。

まずはその「寂しさ」を手放せ、と言いたいところではありますが、まず無理でしょうね。

 


 

 訳の紹介をやめてしまった代わりと言ってはなんですが、FBでご紹介していた、博士の教えとそれを日常生活に当てはめた筆者の日常をこのブログでご紹介していく方針です。いつまで続けるかは不明ですが。